2006年02月03日

二十歳の頃の日記が面白い。

この間の引き続き、大学生の頃の日記を引っ張り出してみる。
もう書いたことは既に忘れているものが8割以上。
そんな中にこんなのがあった。
当時僕は府中市の「養老の瀧府中南口店」でアルバイトをしていた。

_______________

平成4年9月16日

府中南口の某居酒屋にて。
客「馬刺しを、ハイセイコーか、ミスターシービーで。」
店員「あ、うち、あいにくオグリキャップしか置いてないんですが。」
客「そう、じゃそれでいいや。」
店員「板さん、オグリ一丁!」

こんな会話が平然とまかり通っている府中はやっぱりすごいところだと思う。
_______________

今思うと別に府中だからというわけではなく、そのお店自体がそんな雰囲気だったのだ。
当時12時に店をあがって、下宿のある分倍河原まで歩いて帰っていた。
なんやかんやで寝るのは2時ごろ。それで明朝の2限の授業にはちゃんと出ていたんだから、まだ若かったんだなあ。
posted by ぜごん at 21:14| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月30日

二十歳のころ。

今日は僕の誕生日だ。34歳。もはや年を経ることに何の喜びも感じられない。

家に帰って、押入れから覗いていたダンボールを開けてみると、大学生の頃の日記が出てきた。
中にちょうど20歳になった頃のものがあった。
_____________________

平成4年1月30日(木)

ほぼ毎日、教習所通い。金がなくて、気軽に達成感が味わえることとして、八王子のラーメン屋めぐりを始めた。
今日は京王八王子の近くにある「九州ラーメン薩摩」でしょうゆラーメン450円を食べた。味はやや薄め。
_____________________

もう何を書いたのかすっかり忘れていたが、ハタチの誕生日はこんなに味気ないものだったのか!
思わず笑ってしまった。

その前後はこんな感じである。

1月25日 八王子の自動車教習所で広島の頃の同級生に偶然会う。
1月26日 九段会館に椎名誠の映画&トークショーに行く。
2月 2日 未明に震度5の地震。その後友人とニッポン放送のイベントに行く。
2月 3日 サークルの旅行で伊豆・箱根に一泊二日。(伊豆多賀温泉に泊まる。)
2月 7日 大学の広報誌の学生記者の面接。

今思うと何にもしてないようで結構動き回ってたんだなあと思う。
何か、自分なりに答えを見つけようと必死で模索していた時代だ。

最後のほうにこんなことが書いてあった。
_____________________

平成4年2月20日(木)
やっぱり冬の幸せはファンヒーターでポカポカにあったまった部屋で食べる八朔だと思う。
_____________________

これだけは今と何にも変わってないなあ。
そういやそろそろ八朔も出てくる時期だ。
もうちょっとしたら馴染みの八百屋さんのところに顔を出してみようか。
posted by ぜごん at 21:24| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月10日

そろそろカキ(牡蠣)の季節です。

もう店頭にカキが並ぶ季節となった。
カキといえば、広島の冬場の味、という感じだが、これまでに一番美味しいと思ったのは炭火で焼いた殻付きのカキである。

以前、ある人の誘いで12月に工場内のバーベキューに行ったことがある。
何でこの時期に、と思いながらみんなで材料の野菜や肉などを焼き始めた。
一応室内なので思ったほど寒くない。ドラム缶を半分に切った物に炭を入れて、上にネットを置く例のタイプである。
ひとまず集まったメンバーだけで乾杯。

遅れてメンバーの一人がカキを持ってきた。
隣の町の岩場で採ってきたばっかりだという。どれもかなり大きい。
これをネットの上に置いてしばらくするとジュージュー音をさせながら焼け始める。
それを軍手で取って食べてみた。
炭火の強さがいい感じなのか、あと、周りのひんやりした空気が引き立てるのか、言葉が出ないほど美味しかった。
カキが主役のこんなバーベキューもいい。

販売した物ではないので、当たったりしないか心配だったが、それは大丈夫だった。
ただ一つ、焼けたカキを持ち上げる際、熱湯になった汁が垂れてきてやけどをしてしまった。
あわてて軍手を外すと軍手に手の皮がひっついてはがれていた。直後にすごい激痛。

その後ずっと冷水で冷やしてたが、結局年を越すまでこの痛みは続いた。
焼きガキを食べる際は汁に要注意である。
posted by ぜごん at 12:43| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月04日

物産展の裏側番外編

先日書いた物産展は毎年、火曜日までの開催で、全てをその日のうちに片づけたので、水曜日には帰る前にいつもつかの間の京都見物を楽しんだ。

3年行ったうちの2年目は、四万十のおじさんと出来たばかりの地下鉄東西線に乗り、終点の醍醐駅で降りて、醍醐寺を見ることにした。

醍醐寺の境内は春だと桜がきれいなのだろうが、この時期はすっかり新緑の季節。萌えるような緑の中をゆっくり歩いた。
ガイドブックなどを見ると秀吉が醍醐の花見を催したのはここだという。
庭が特にすばらしく、境内の風景を見ているだけでも充分来た価値はあった。

3年目もおじさんとどっか行こうと申し合わせて、ガイドをめくりながら目に留まったのが泉涌寺。せんにゅうじ、と読む。
天皇家の菩提寺だったらしく、約700年も門を閉ざされていたというお寺である。
その名の通り、境内には今も湧き水がこんこんと湧いている。
また、建物の中には至る所に菊の御紋がはめ込まれていて、天皇家とのつながりを強く感じさせる。

ここも新緑がすばらしかった。
他には楊貴妃観音という、顔のきれいな観音様がいる。

どちらも金閣寺とか清水寺みたいにメジャーでなく、観光客もあまり多くないので(時期によって多少の違いはあると思いますが)、とても落ち着ける場所でおすすめです。
posted by ぜごん at 12:54| 広島 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月31日

百貨店物産展の裏側レポート(5)

月曜日になると、土日の慌ただしさが嘘のように静まりかえった。

閉店まぎわに藍染めを売っているおじさんが缶のお酒を一本買いに来た。
飲むのかな?と思っていると、「これを藍に飲ませるんだ」と言っていた。
藍の樽に日本酒を混ぜると色がまたよく出るようになるんだ、とか。

四万十のおじさんは今晩はお客さんが食事(いわゆる一見さんお断り、というようなお店です。)に連れて行ってくれるんだ、と言っていた。
長年出店していると、商品を買って気に入ってくれたお客さんが懇意にしてくれるらしい。

火曜日が最終日だった。
最後のお客さんはあの企画会社の社長さんだった。
おそらく売れないと思っていた高価な商品を「お近づきの印に」と買ってくれた。
そのおかげで何とか目標の売上がわずかにクリアとなり、何とか面目が保てた。

物産展自体は4時で終了し、みんな手際よく片づけていた。
その時は別の市役所の方が応援に来てくれていたが、あの「冷凍お好み焼き」の梱包のせいで僕らが最後になってしまった。

広島に帰ると、程なく宅配便で荷物(お好み焼きその他)が到着。
お好み焼きは一体何箱あっただろう。無造作に積み上げられていた。

その後そのお好み焼きがどうなったかは、ご想像にお任せします。

(おわり)

※7、8年前のことなので事実と若干違うところがあるかも知れません。
posted by ぜごん at 12:54| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月30日

百貨店物産展の裏側レポート(4)

宴会が終わり、みんな散り散りに夜の町へ消えていった。
僕は一緒に来ていたお菓子屋さんと「飲まない組」の方に入って喫茶店(たぶん珈琲の青山)に入った。
その中に四万十川の下流の町で木工品を作っているおじさんと知り合った。
名刺がひのき製で、一見、職人気質の強い印象を受けるが、オヤジギャグをバンバン飛ばす。そんな方だった。
(その後僕はこのおじさんとところを訪ねていくのだが、この件は8月の下旬の方を参照。)

土日の目の回るような忙しさが過ぎた。
お好み焼き屋のおばちゃんは店があるからと金曜日の晩に帰って行った。
土、日と出店している酒屋の社長が来て、京阪神一帯に住む彼のお客さんに来てもらって、自分とこのお酒を買ってもらっていた。

この日は市役所の職員さんが地元の「ミス○○」などを連れてきて、華やかさを添えた。

ただ、ひとつ気になるのは、お好み焼き屋のおばちゃんが帰ってから冷凍のお好み焼きがほとんど売れなくなってしまったのである。

冷凍庫はデパートの地下にあった。この間の追加分もあわせて、大量の冷凍お好み焼きが冷凍庫を圧迫し始めた。

(つづく)
posted by ぜごん at 23:50| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月29日

百貨店物産展の裏側レポート(3)

この時は応援で酒屋の社長も来ていて、地元の冷酒を振る舞ったり、馬油を出店している九州の業者さんが特上の馬刺しを提供してくれたりして、大いに盛り上がった。(知り合いもいっぱい出来た。)

その中で一人、物産店の企画を担当していた企画会社の社長さんがいた。

「どう?君のところは。」と聞かれたので、「いやあ、最近活気がなくて。」と言ったら、「じゃこういった物産展で売り込んでみたら?」と言うのである。

彼曰く、実はこの物産展自体もう10年以上経っており、主催者もいろいろ企画を練ってみるがマンネリ気味なのだそうだ。

「だから、こういったイベントの前にデパートの統括とかに企画を出すんだよ。地元のことがいいように取り上げてもらえるように。いい企画だったらきっと取り上げてくれるに違いない。」

当たり前のことを当たり前ととらえずに、相手の状況とか考えを読んで期待に応えていくところに進歩があり成功がある。
何かそんな話だった。なるほど、と思った。

(つづく)
posted by ぜごん at 23:50| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月28日

百貨店物産展の裏側レポート(2)

7階に上がってくると、既に会場はあわただしく準備が始まっていた。
今日は店休日らしい。それにあわせて催事の準備をするのである。

決められた出店ブースに行くと、頼んでいた冷蔵ショーケース(っていうのかな?)が電源の入った状態で置いてあった。
お好み焼き実演用のオーブンもある。
荷物は1階にあるので、必要なだけ持って上がってセッティングをして行った。

地元のお酒もショーケースに並べ冷やすととても美味しそうだ。
その他には地元のお菓子や牡蠣(カキ)の加工品、冷凍したお好み焼きなどがある。

とりあえず明日からの物産展に間に合うだけの商品を設置して、地元のポスターなんかも貼って、デパートを出た。

デパートが斡旋してくれたホテルは、祗園ホテルといって、ここから四条大橋を渡ってしばらく歩いたところにあった。
夕食を済ませてホテルに戻ると、橋のたもとにある南座という歌舞伎座がライトアップされて綺麗だった。

初日は忙しく過ぎていった。
平日なのでお客さんは主婦層が中心。小さなコップにお酒を入れて試飲してもらったり、お菓子を切り分けて試食してもらったりした。お客さんの手応えはまずまず。
お好み焼きのおばちゃんは冷凍のお好み焼きを手際よく調理して、話術巧みに紹介したら、飛ぶように売れていった。

おばちゃんがお好み焼きを順調に売っていったもんだから、あっという間に足りなくなり、広島に電話をかけて追加注文していた。
実はこれが過ちのもとだったのである。

(つづく)
posted by ぜごん at 12:42| 広島 | Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月27日

百貨店物産展の裏側レポート

かなり前のことになるが、京都に泊まって物産展のお手伝いをしたことがある。
百貨店の特設会場に行って、地元の産品を売るのである。

メーカーの人が入れ替わり立ち替わりやってきて商品を販売するのだが、ずっとついているわけにもいかないので、そのつなぎで開催期間中の8日間、僕が商品やお金などの管理をするのである。

最初の年は大体段ボール50箱ぐらい、地元の運送屋さんに行き、発送の手続をした。
中にはクールの商品(冷酒と冷凍のお好み焼きです。)もあった。

荷物を先に送っておいて、僕らは新幹線で京都に向かう。
その時のメンバーは僕とお菓子屋さんの社長とお好み焼き屋さんの店員のおばちゃんである。

目指す百貨店は地下鉄で少し行き、さらに歩いたところにある。
どうやらここが京都の一番の繁華街のようで、他にも百貨店や専門店、土産物屋などが並んでいた。
昼食を済ませたあと、百貨店の裏から入り、バックヤードに到着しているはずの荷物を取りに行った。

商品はラックに入れられて、ちゃんと到着していた。
一瞬クールの商品がない!と焦ったが、ちゃんと百貨店側が冷蔵庫&冷凍庫(かなり大きいです)に入れてくれていた。
これから僕らはラックを転がして、搬入用のエレベータで7階の催事会場へ向かった。
(つづく)
posted by ぜごん at 12:55| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月21日

金沢に行った頃のこと

僕が呉から金沢に引っ越したのは昭和52年の8月である。
横田めぐみさんの家族が広島から新潟に引っ越したのが昭和51年(めぐみさんが拉致されたのが52年の11月)というから、同じような時期である。

初めての冬を迎えた時、あまりの気候の違いに戸惑った。
大体晩秋になると、朝も夜も絶えず雷が鳴り、冷たい雨の降る時期が3、4日続く。
そして雷がやんだ日の朝、地面にうっすら雪が積もっているのである。
地元ではこの雷を「雪おこしの雷」と呼んでいた。

まだ幼かったため、夜でも構わず稲光がビカビカと鳴り続くのが恐かった。
陽光きらめく瀬戸内からいきなりこんなところに来て、エライところに来てしまった、と思った。

父の親戚が北陸地方にかたまって住んでいて、時々遊びに行った。
この辺りの言葉は関西弁を濁らせたような感じで、幼心に嫌だったのを覚えている。

これから小学校卒業まで、約6年半ここで暮らすことになる。
posted by ぜごん at 12:50| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月18日

無謀な無人島渡航計画

中学か高校のころ、僕はお盆に祖母の家に遊びに来ていた。

そこに居合わせたいとこ2人は同級生。暇を持て余して、対岸に見える無人島にゴムボートで渡ることを思いついた。

それまでこの無人島には何度か行ったことがあった。
叔父達が共同で漁船を持っていて、時々船を出してはその無人島に僕ら子供を下ろして、その間大人たちは釣りに興じる、これがお盆の恒例行事だった。

それが僕らも大きくなり、何とか自分達の力で島に渡れないか、そんなことを思いついたのだろう。
手持ちのお金を出し合って、おもちゃ屋で3人乗りのゴムボートを購入。
自転車で海に出て、砂浜で膨らませてみた。案外簡単に空気はいっぱいになった。

そしてゆっくりと海に浮かべてみた。思ったより波は穏やかだった。
だんだんと陸地から離れていく。

異常に気づいたのは10分ほど漕いだ時のことである。

島が一向にこちらに近づいてこない。
代わりにずーっと向こうにあるはずの、全島工場の島(地元の人は「チキリ」と呼んでいた)がだんだん近くなってくるのである。

どうやら僕らは潮に流されているようだった。
この辺の海は穏やかに見えて実は川のように流れを持っていた。

3人、交代で必死で漕いでみるが事態は好転しないので、1人が漕いでる間に2人がボートから降り、バタ足でボートを押してみる(1人は水泳の選手)、という方法をやってみた。

しかしどんどん流されていく。無人島はどんどん遠くなっていった。
こっちの気も遠くなりかけたその時、一隻の漁船が通りかかって、ボートと僕らを引き上げて、岸に送り届けてくれた。

僕らは3人で低調にお礼を言って船を下りた。
もう夏の日もだいぶ傾きかけていた。

今思い出しても恥ずかしい夏の思い出である。
その後、地元の人に聞くと、あの島にはゴムボートで行くこともできるという。
要は潮流も計算に入れて、流れのずっと手前から船を出して、流れに乗るように進んでいくのだという。

あの時欠けていたのはそういったほんのちょっとの「知識」だった。
やはり物事は情熱だけではダメで、方向性が正しくなければ目的地にはたどり着けない。
posted by ぜごん at 22:39| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月16日

期せずして四万十川で遭遇したもの

僕が大学時代住んでいたのは、京王線とJR南武線が交差する分倍河原という町である。

あの古畑任三郎はこの町に住んでいる、という設定らしいが、僕が住んでいたのはまだあの番組が放映される少し前のことだ。

駅前に必要最低限のものが揃う商店街があり、その中に一軒の本屋があった。
この本屋では市在住のある絵地図作家の方の作品を売っていた。

大学を卒業する時に、記念に一冊、『多摩川散策絵図』という地図を買い求めた。
水源の山梨県塩山市から羽田空港辺りまで、橋や建物から始まって、そこにすむ野鳥や魚、生えている植物まで、詳細に書かれている絵地図である。
4年間、この周辺で過ごした思い出がいっぱい詰まった宝物となった。

その後、この町を去ってから3年ほど経って、知り合いを頼って高知の中村市を訪ねた。(このことは8月に書いている。)

帰りに特急の発車時刻まで時間があったので、駅前の観光案内所に行ってみたら、よく似た絵地図が販売されていた!表紙には『四万十川散策絵図』と書いてある。
見本をパラパラめくってみるとやはり同じ作家さんのものだった。
何か思いがけないところで懐かしい人に出会ったようで嬉しくなった。
これも記念に買っておいた。

少し前にTV東京系の「出没!アド街ック天国」でこの町が特集されたときに、あの絵地図作家さんも紹介されていた。
書かれている野鳥や魚なんかは実際に実地調査しながら書いていて、完成まで一年を要するものもあるという。

今はネットで番地単位まで指定した地図が簡単に手に入る時代ではあるが、こういう手をかけて作った絵地図というのも何か暖かみがあっていい。

「アトリエ77」
http://www2.odn.ne.jp/~cdf21010/
posted by ぜごん at 20:34| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月11日

煉瓦の一部分

僕の知人に住宅メーカーの人がいる。

もともとは土木工事の会社で、特殊な技術を持っているのであちこちからひっぱりだこなのだが、最近新規事業として家の販売を始めた。

その人が以前、宣伝も兼ねて自分の家を建てた際、内見会として僕らを招待してくれた。

最近CMとかで盛んにやっている、坪単価を極力抑えた注文住宅のはしりのような家で、それでいて内装もしっかりしていて、地震にも強い構造、ということだった。

一通り見せてもらった後、その人は2階のベランダへ案内してくれた。

壁面は煉瓦が敷き詰めてあったが、そのうち2枚が何か周りと違う。
聞いてみると、ここは小学生の2人の息子さんがそこだけセメントを塗ったのだという。

「こうやってね、家を建てるときにその一部分でも自分が関わった、ということを体験してもらうことで、将来学校を卒業して遠くに出て行ったとしても、ずっとこの家に愛着を感じててくれると思うんですよ。」

なるほどな、と思った。
これによってこの子らにはこの家が特別なものになる。親の思いみたいなものも充分伝わっていると思う。

最近は事業をしている人が子供が継いでくれない、とかいうけど(もっとも子供には継がせたくない、という人も多いが)、それをつなぎ止めておくものって、こういう些細なことなのかもしれない。
posted by ぜごん at 12:36| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月07日

期せずして中国で蒸気機関車に遭遇

中国を2週間旅行した平成4年の8月のこと。

北京を一通り観光した後、次に行くところを山西省の大同市に決めた。
世界史で習った「雲崗石窟」があるからである。

北京駅で切符を買い求めたが、軟座(指定席)は満席。
硬座(自由席)は盗難が心配だから嫌だ、と友人の一人が言い張るので、タクシーで行くことを思いついた。
同行の留学生が交渉してくれて、何とか一人一日6,000円(何元だったかは忘れた)でタクシーを借り切ることに成功した。
大同市までは片道500qぐらいある。普通はタクシーで行く距離じゃない。

荷物をまとめて、昼過ぎに北京を出た。
市内を過ぎると、途端に牧歌的な風景が拡がる。
いくつかの町や村を過ぎたとき、一つの工業都市で踏切に引っかかった。

20分以上待っても遮断機は開く気配はない。
その間に後ろはものすごい渋滞になってきた。
僕ともう一人の友人は、そばの茂みで用を足すことにした。

茂みにはいると、金網があって、その向こうに別の線路があった。
工場への引き込み線のようだった。

用を足して(もちろん小です)、帰ろうとすると金網の向こうからブォーッという汽笛の音とともに蒸気機関車がやってきた。
蒸気機関車を見たのはこれが初めてだったのですごく驚いた。

ものすごい存在感である。
こんな無駄の多い鉄のかたまりが僕の生まれる少し前まで日本中で走ってたんだろうか。

貨車は長く長く続いていたが、やがて工場のの中に消えていった。

タクシーまで戻ってくると、後ろへ並んでいた何台もの車が追い越してきて、遮断機の前にはもう3,4台の車が横一列に並んでいるような状態になっていた。踏切の向こうを見ると、向こうも同じ状態になっている。

まもなく列車が通り、遮断機が上がったのだが、この両方の車が一斉に前に進んだもんだから、一時は離合できなくなって(当たり前だ)騒然となっていた。
あぁ、中国の人って・・・(以下略

これから先にまだまだ色々あったのだが、機会があれば続きを書くことにする。
posted by ぜごん at 12:38| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月05日

期せずして奈良の都でペガサスに遭遇?

昨日の新聞に奈良の正倉院展の記事が出ていた。
今年は10月29日(土)から11月14日(月)開催らしい。

(奈良国立博物館HP)
http://www.narahaku.go.jp/exhib/2005toku/shosoin/shosoin-1.htm

正倉院展といえば、平成7年と13年の2回行ったことがある。
平成13年の時は、

@薬師寺の平山郁夫の壁画、A正倉院展、B司馬遼太郎記念館

この3本立てのコースで行った。
正倉院展は近鉄奈良駅から東大寺に行く途中にある、奈良国立博物館で開催される。
正倉院は東大寺の境内にあり、天平の頃の宝物が多数収蔵されているが、1年に一回、ここで一般公開されているのである。
公開される品目は毎年変わっている。

奈良時代だから今から1200年以上前になるが、当時の楽器から、双六の台、ガラスの器、仏画、伎楽面まで、あらゆるものが展示されている。1000年以上前のものなので、多くは変色してしまっているが、瑠璃色のガラスの器などは今でも鮮やかな光を放っている。また、琵琶のような楽器に書かれたらくだの絵なんかも貝殻をはめ込んでいてきらきらと光っている。
きっと太古の昔にはるばるシルクロードを越えて海を渡ってきたんだろうと思うとロマンをかき立てられる。

一通り見た後、一つの鉄製の器が目に入った。
表示を見ると銀製らしい。今はほぼ真っ黒になってしまっているが、表面に大陸の生活の様子や植物なんかが描かれている中に、羽根を付けた馬のようなものがいるではないか!

再び表示を見直すと、やはりペガサスだった。
もちろん大陸にそんな生き物がいるわけではないのだが、こんなところでこんな神話の中の生き物に出くわすとは思わなかった。想像で彫ったにしては筆がしっかりしている。

天平の時代にはきっとこのペガサスがキラキラと銀色に輝いていたんだろうな。
それこそ情報の極めて少ない時代、どんな気持ちでみんなこれを眺めていたんだろう?
あれこれ想像すると楽しい。
posted by ぜごん at 12:39| 広島 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月04日

期せずして老舗のそば屋に遭遇

就職活動をしていた大学4年の頃、平成5年の7月のこと。

この日僕はある精密機器メーカーの説明会のため、地下鉄の岩本町駅で降りた。
地上に出てくると、梅雨時ながら快晴の天気で、着慣れないスーツはすぐに汗でびっしょりになった。
開始まで時間があったので、大通りから一本入った道を歩いていると、すぐに黒壁の蔵のような建物が目に入ってきた。
よく見るとそば屋さんらしい。

ちょうどお昼だったので入ってみた。中も古めかしくて重厚な感じがした。
入口にレジがあり、前払い式になっているようだった。小さなおばあちゃんがひとり座っていた。
注文を済ませ、席に座った。昼時でサラリーマンが大勢いる。

まもなくそばが運ばれてきた。
器は普通のどんぶりより一回り小さかった。
そばは細麺で、何よりダシが美味しかった。関東は濃いイメージがあったが、そんなにくどくない味。

その時はそんなに気にもしてなくて、店名も覚えて来なかったが、何年かして、時々思い出すようになった。

ガイドブックやネットで探してみるが、あの辺りはそば屋さんが多くて、これは、と思うところが見つからない。
もちろん東京には何回も行っているけど、わざわざそのためにそこまで足を運ぶこともなく今に至っている。

あの時行った会社名は覚えているので、もし行くことがあったら、地下鉄の駅から同じ道をたどってみたいと思う。
posted by ぜごん at 12:38| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月03日

期せずして駅そばでつけ麺に遭遇

だいぶ前のことになるが、用事で広島に行った時のこと。

時間がなかったので昼食を食べずに電車に乗り込んだが、広島駅に着いたとき既に2時で、かなりの空腹感が襲ってきたので1番線ホームの駅そばに入った。

入口の券売機を見ると、中に明らかに違和感のある表示。みると「つけ麺」とある。
最近にわかに広島名物になってきているが、食べたことがなくて、この際話の種にと頼んでみた。

するといつもそばとかうどんを作っている従業員さんが奥の部屋に何か言いに行った。
まもなく職人風の眼光鋭い若い男の人(一風堂にいるような)が出てきて、鮮やかな手さばきでつけ麺を作り始めた。
完成して「おまちどうさま。」と僕の目の前に置いた。

へぇ、つけ麺のタレって上にゴマがいっぱい載ってるんだなー、とか思いながら口にすると、なかなかの美味。細く切ったネギもいい感じで効いている。
駅そば屋さんでこんな味に出会えるなんて意外な感じがした。
大満足で全てを平らげて店を後にした。

それから何ヶ月かして、広島に飲みに行った帰りに同じ電車で帰る人とこの店に入ったが、既に券売機から「つけ麺」の文字は消えていた。

やはり注文する人は少なかったのか、また、何であの時だけ違う従業員さんが出てきて作ってくれたのか、謎は残るがあれからあの店には行っていない。
posted by ぜごん at 12:39| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月28日

ハーモニカのサークル(2)

この楽器は他の楽器と同様、空気の吹き込み方にコツがあるようで、慣れるまで少し戸惑った。

演奏する音楽は洋楽からラテン、フュージョン、クラシックまで多彩で、自分たちの好きな曲を好きなようにアレンジして、聞いてもらう、という感じである。
その気軽さがいいのか、かつて吹奏楽などをやっていた人もここには何人かいた。

当時、演奏会は6月の音研合同、7月の四大学ジョイント、12月の定期演奏会がメインで、それに加えて11月の学園祭や春と秋の新入生勧誘の時に学内で演奏していた。

12月の定期演奏会は有楽町のよみうりホールを一日借り切って行われた。(大体当時で一日60万円くらいかかるホールである。)
そのほかに春と秋に3泊4日くらいの合宿がある。春は千葉県の御宿、秋は河口湖畔の、それぞれ楽器の持ち込める旅館でやることが多かった。

まずこのサークルに入ったとき、僕は楽器については全くの初心者だったので、譜面の読み方から先輩達に教わることとなった。先輩ももともと初心者だったようで、ここで経験をつんで、Tスクエアのような複雑な譜面も読みこなすようになっていた。

練習は大体パートごとの練習があり、そのあと全体で音を合わせる、といった流れで行われた。パートの練習はいつも野外にパイプイスを持ち出して座り、そこで大体1時間ぐらい練習した後、室内の狭い部屋に40人くらいすし詰め状態で全体練習をする。

譜面は、部員の中で何人かアレンジをする人がいて、出来るたびに配布してくれる。
それを覚えて、全体の練習に望むわけだが、指揮者が聞いてみて、おかしなところがあるとその場で譜面が書き換わったりする。結構好きなフレーズとかがあっても変わってしまうことがあり、それがちょっと残念だった。(つづく)
posted by ぜごん at 12:50| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月26日

ハーモニカのサークル

大学の頃、落語研究会のあと大学2年から入ったのがハーモニカのサークルである。

正式名称は「音楽研究会リード合奏部ハーモニカソサイェティー」という長い名前である。

高校時代、放送部で学園祭や体育祭のPAを何度かやっているうちに、裏方ではなく、ステージの上で何か表現出来たら気持ちいいだろうな、という考えが頭の中でふくらんでいた。

それで最初は落語研究会の方に入ったのだが、一年生の一斉退部事件のあと、またその気持ちがよみがえってきたのである。

先輩に誘われて新入生の勧誘演奏を聴きに行ったとき、ラテン系のノリのいい響きがとても心地よかった。それですぐに入部を決めた。
ほかにも僕の知っている曲ではビー・ジーズの「First of May」なども演奏していた。


このサークルは5種類のハーモニカと、キーボード、ギター、ベース、ドラム、パーカッション、ビブラフォン&マリンバ、アコーディオン、フルートといった実に多彩な楽器で構成されている。

最初にどの楽器がいいかと聞かれたとき、やっぱりハーモニカだろうな、という考えがあったが、中でもホルンという幅が30センチある大きなハーモニカがとてもかっこよく、演奏し甲斐がありそうに見えたので、それを希望した。

altohorn.jpg
画像はトンボ楽器製作所さんのサイトから借用。

人数のバランス等で僕はアルトホルンハーモニカの担当となった。
3年の女性の先輩が一人と、4年の先輩が3人いた。

はじめは先輩のハーモニカを借りて吹いてみたが、全く音が出ない。(つづく)
posted by ぜごん at 12:47| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(3) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月22日

二泊三日船舶免許取得記(3)

三日目。今日は朝から一日学科である。

狭い教室に30人くらい入って、ずーっと先生の講義を聴いた。
先生のほとんどが昔外国船の航路に乗られていた航海士の方で、
講義の合間に現役時代の話を聞かせてくれて、そっちの方が面白い。
(あえて書きませんが、それだけでもここに来る価値有りです。)

昼食の時、同じ船の二人と一緒のテーブルになった。
帰りのタクシーの話とかしているので、新尾道まで送っていきましょうか?と言った。
どうせ尾道インターから高速に乗るので通り道である。

夕方5時くらいから学科試験があった。
遠方の方を配慮してか、開始時間が最初の予定より若干早くなった記憶がある。
試験官となった先生が、「採点して、合格次第解散となります。」と言った。
5通りくらい問題があって、先生は一瞥で合否が分かるという。
すごいなぁ、先生、解答を覚えてるのか!と一瞬思ったが、これには仕掛けがちゃんとあった。

マークシートのように、解答の記号を塗りつぶす形式だったが、早々と解答し終わり、提出したら、先生は穴の開いたボール紙をおもむろに出して、僕の解答用紙に当てた。

どうやら正解のところに穴が開いていて、その穴のところがマークされていないと間違いだと言うことが分かる。その数を数えればたちどころに合否が分かる、ということだった。

一応先生からOKを頂いたので、荷物をまとめて寮を出た。あの二人も続いて出てきたので、新尾道駅まで送って行った。

途中、尾道市内の山陽本線と平行するところを通っているとき、一人が「何か昔の横浜市内に雰囲気が似ているな。」と言っていた。尾道をそういう風に表現する人を初めて見たが、きっと山陽本線と2号線の辺りの薄汚れた感じと古い商店街がそんな風に見えたんだろう。

ほんの少しの間だったけど、面白い経験だった。
何といっても船の運転が出来ると車の運転の倍近い範囲が自分の行動範囲となるわけで、それだけでも何だか世界が拡がったような気がする。まぁ実際、今はほとんどペーパードライバーなわけですけど。(おわり)
posted by ぜごん at 12:25| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。