2005年09月21日

二泊三日船舶免許取得記(2)

二日目。ひんやりした早春の夜明けである。
寮は昭和40年代築ぐらい。古いエアコンがカタカタ音をさせながら頑張っていた。

今日は朝8時から午後2時45分まで実技、その後実技審査があって、夜は学科の授業である。

朝から例の3人と船に乗って、先生の言われるままに発進してから、途中で変針したり、蛇行したり、といったことを練習した。また、先生が途中で浮きを投げて、それを人間と見立ててグルーっと引き返して人命救助をする、というようなこともした。

そのあと、桟橋のようなところで接岸の練習をした。この接岸が思いのほか難しい。実技試験の時、船体が岸にぶつかってしまうとそれだけでアウト、みたいなことを言っていた。

途中の島に上がってロープの結び方も練習した。もやい結びだとか、錨結び、巻結びといった方法がある。これも試験でやらされるらしい。

その日の昼食はどこか知らない島に上がり、先生のいわれるままに全講習生がある食堂に入った。
どうやらここの学校と提携しているらしく、いっぺんに大勢入ったにもかかわらず手際よく食事を運んできた。

14時50分からはいよいよ実技審査である。
これまで乗った船に、違う先生(試験官)が乗り込んできた。
上に書いたような実技が一通りあって、そのあとで口述試験、といって学科で勉強したような内容を船に乗りながら聞かれる試験もあった。

実技はおおむね上手く行ったが、口述がなかなか思い出せず(というか事前にこれが出る、と言われていたこととは全く違うことを聞かれて、混乱してしまった)、試験官には渋い顔をされた。
最後に「いちおうOKは出すけど、帰ってからよーく本読んどけよ。」と釘を刺された。

寮に戻ってから8時までは学科があった。その後明日の学科試験に向けて少し勉強した。
先生が「ここをマークしておくように」と言ったところから大体出るらしい。

同じ船に乗った人は神奈川の人で、僕より3、4歳年上で、二人とも既婚者らしかった。
どうしてわざわざ尾道まで来たのかと聞くと、この学校は結構関東でも(いろんな意味で)評判がいいから、とのこと。
普通は旅行も兼ねて来ることが多いが、この人達は仕事もあるので新幹線でトンボ返りだと言っていた。もったいない。(つづく)
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2005年09月20日

二泊三日船舶免許取得記

この地域はマリンレジャーが盛んだと言うことは前にも書いたが、船舶免許の保持者が石を投げたら当たるくらいいる・・・というと言いすぎになるが、本当にバイクの免許を持ってる人よりは絶対多いと思う。

僕も例のイベントの関係者の人に「せっかくだから免許とっときなよ。」と言われていたが、その閉じ10万円以上していたし、時間も余裕ないし・・・と適当な理由をつけてそのままになっていた。

それが一昨年、船舶免許が改正になって、今までは小型船舶4級(現在の2級)の免許があれば水上バイクに乗れていたのが、これからは船と水上バイクの別々の免許が必要となる、というので、この際だからと急いで取得することにした。

法律の改正が平成15年5月だったので、3月の連休を利用して尾道海技学院の2泊3日のコースを申し込んだ。

尾道海技学院 http://www.marine-techno.or.jp/

2泊3日で学科15時間、実技12時間のハードなコースである。
カリキュラムを見ると、夜の10時頃までびっしりだった。
予約はネットからできるようになっていた。

昼前に尾道の千光寺公園近くの学校に行き、そこでオリエンテーションのようなものがあった。
その後、向島にある教室に移りますので、バスの人はバスで、車の人は車で移動して下さい、と言われて、車で来ていた僕はバスの後ろについて尾道大橋を渡り向島に渡った。

その校舎というのは向東町商工会の建物の一室で、最初に少しだけ航路標識の見方や船の各部分の名称などを講義してもらったあと、その横にある桟橋へと移動した。そのあと先生1人に生徒3人という組み合わせで小型の船に乗船した。僕は神奈川県から来た二人組と一緒の組み合わせになった。

最初は先生の操縦で東方面に進み、尾道大橋をくぐって航路標識のある辺りに行き、その後一人一人がハンドルを握って夕方まで運転をした。(その日いきなりなので結構ドキドキする。)

再び桟橋に戻ってきて、そこから3qほど離れた寮に移動した。
荷物を置いて、夕食となった。
ここの夕食は結構豪華。野菜たっぷりでお腹がいっぱいになった。
そのあと寮で午後9時50分まで講義である。

初日から中身の濃い日程で、ぐったりして寮のベッドに横になった。(つづく)
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2005年09月15日

開店前夜のこと。

前の会社を退職して、今のところに入る前、東急ハンズ広島店でアルバイトをしたことがある。

ここは平成7年10月7日開店で、9月下旬に情報誌で求人を見つけて応募した。
うちからでも交通費を負担してくれたのが良かった。

開店までは検品所とか、フロアの品出しの補助みたいなことをやった。
僕らはほぼ定刻に帰っていたが、社員の方はかなり遅くまで仕事されていたようだ。

オープン前日の10月6日の夜、フロアの主任が、「せっかくだから上から下まで見てくるといいよ。」と言ったので、同じバイト仲間と回ってみた。
すっかり商品が陳列されており、何か宝の箱をのぞき込むような、湧き立つ興奮を抑えられなかったのを覚えている。

当時はまだロフトとかもなく、商品の一つ一つが他とひと味違うものばかりだった。
開店後、市内の既存の文具店(多山文具とか)が一斉に商品構成を変えたのを覚えている。

10月7日午前11時。いよいよ開店である。
雲一つない秋晴れの良い天気だった。
僕は1階の陳列の補助になったので、運良くテープカットなども見ることができた。
東急ハンズの社長とか、最上階にオープンした広島東映の関係者、また、そこで上映される「藏」という映画の主演をつとめる松方弘樹氏などが一斉にテープを切った。

今は当時の主任とかマネージャーとか、ほとんどの人が入れ替わってしまった。フロア構成もかなり変わっているが、やはりここの品揃えと集める商品の質の良さが魅力で時々利用させてもらっている。

でも開店前夜に感じた、あの湧き立つような気持ちを超えるものは今はないんだよなぁ。
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2005年09月11日

タイムカプセルを開けに(2)

タイムカプセルからは、それぞれ8年後の自分に宛てた手紙と、みんなで録音したカセットテープが出てきた。
あの当時は8年なんて遠い未来のように感じたが、過ぎてみるとあっという間だ。
懐かしい声が部屋の中を包んだ。

今が平成17年だから既にこのときから倍近い年数が経過している。
また8年後に会いましょう、と言って別れたが、それっきりになってしまった。

その日は昔から中の良かった友人の家に泊めてもらった。
彼は商業高校卒業後、地元の大手建設会社に経理で就職していた。
当時学生だった僕から見るとだいぶしっかりしていた。

金沢駅から電車に乗る前に、昔の知人の経営する洋服店に寄ってみた。
弟の同級生の家族で、我が家とも家族ぐるみで付き合いをしていたのだ。

あいにく店を経営するおばさんは不在で、来たことだけお伝えください、と店員に行っておいた。
それから何年かして、風の便りにその店が倒産して、家族も散り散りになってしまって行方不明になった、という話を聞いた。

平成3年というと、バブルが弾けるまさに寸前、といった頃である。

その時の担任の先生は公立の先生ながら独自の教育を進められている方で、今もテレビに出たり全国に講演に行かれることが多い。

今年も1月にNHKスペシャルで先生の特集が組まれていた。
その中で先生は今年いっぱいで定年退職だと紹介されていた。
以前から白髪は多かったが、この時は何かしわが増えたな、という印象が強かった。

また時間があれば、訪ねてみようかな。最近そんな気がしている。
posted by ぜごん at 06:17| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月10日

タイムカプセルを開けに

このあいだ北海道の旅行記を書いたが、このとき出てきたノートの中にいろいろ面白いことがいっぱい書いてあった。

北海道旅行と同じ平成3年の5月4日。この日に僕は金沢に旅行している。
僕の卒業していた小学校は石川県の金沢市にある十一屋小学校である。

昭和59年3月の卒業のとき、みんなでタイムカプセルを埋めて、8年後(すなわち20歳になったとき)にみんなで開けてみよう、ということになっていたのだ。

前日の3日は友人と劇団☆新感線の公演を見に行ったことが書いてある。
その後家に帰ってからも興奮して眠れないことが書いてあって、とうとう一睡もしないまま午前6時33分の快速に乗ったらしい。

羽田空港から飛行機が10分遅れで出発した。富士山を越え、北アルプスらしき山を過ぎ、日本海にほぼ水平の向きで小松空港に着陸した。

金沢市内までは高速道路を経由する。繁華街のある片町で降り、そこから十一屋小学校に向かった。着いたときはまだ誰も来ていなくて、校舎をぐるっと回ってみた。高台にあってそこからは医王山や犀川が一望できる。

ここで同級生や当時の先生と合流して、どういうわけかボウリング場に行っていた。
ほとんどが顔なじみだったが、もう忘れている顔もあった。向こうは僕のフルネームまではっきりと覚えていた。

その後車で分乗して、同じクラスで亡くなった子の墓参りに行った。
北陸本線より海側の田んぼの中の密集した墓地にあった。
そういえばその子とは当時喧嘩ばかりしてたっけな、そんな思い出がよみがえってきた。

地元の子が公民館の一室を借りていて、そこでタイムカプセルを開けた。
タイムカプセルはアルミ製で、鉄工所を経営していた同級生の父親がしっかり溶接してくれていたので、再びそこに行って開けてもらったらしい。(つづく)
posted by ぜごん at 12:59| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月08日

東京から鈍行で帰った時のこと。

大学に入ったばっかりの頃、5月の連休に一度広島に帰ったのだが、何を思ったか、鈍行列車で帰ることにした。

今もある東京発大垣行きの夜行列車に乗って、東京駅を出たのが午後11時40分ごろ。

連休前ということもあって車内は通路にまで人があふれかえっていた。
僕は友人の情報もあって2時間前からホームで並んでいたので何とか座席には座ることが出来た。

大垣からさらに何度も何度も乗り継いで、岡山まで来たときはさすがに疲れ切っていた。
クロスシートの向かいに座ったおじさんがビールを勧めてくれた。

何か言いたそうだったが、言葉に出ない。よく見ると、首のところに穴が開いていて、そこからわずかに息が漏れているだけだった。どうやら口が聞けない人らしい。

僕はすかさずカバンからメモ帳を出して、筆談を持ちかけた。
相手もすぐに引き受けてくれて、そこから僕が西広島で降りるまでのあいだ、メモ帳のページが何ページも埋まるくらいいろいろ会話をした。

彼の言葉を要約すると、遠くの方に働きに出ているのだが、久しぶりに奥さんに会いに帰ることになり、うれしくてたまらない、そんな内容だった。ほかはもう覚えていない。何せもう15年も前のことなので・・・。

東京から既に13時間以上列車に揺られ続けていたが、最後の2、3時間は本当にあっという間だった。お金をケチらずに新幹線で帰っていたらこんな出会いはなかったかもしれない。

一期一会、という言葉があるがこういう思いがけないことが時々あるので旅は面白い。
posted by ぜごん at 23:43| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月07日

寿司屋の符丁

大学時代、最後にやったアルバイトが回転寿司だった。
回転寿司とは言っても、客の注文にも応じるタイプのお店である。
店では一丁前に寿司屋の符丁を使っていた。

符丁というのは、関係者にだけ分かる合い言葉みたいなもので、
「あがり」とか「おあいそ」など、一般的な言葉になっているものも多い。
「ぴん、りゃん、げた、だり・・・。」など数字にもそれぞれ呼び名がある。

回転する皿は240円・160円・120円の3種類あった。
ホール係が、レジにこの枚数を伝えるのに符丁を使うのである。
ほかのお客さんに枚数が分からないように、という配慮もあったのだろうか。

240円2枚・160円1枚・120円4枚だったとすると、「りゃん、ぴん、だり」と言う。
するとレジがその通り枚数を打つのだ。

時々変な感じに聞こえるときもある。

「○○ちゃーん、何枚だ?」

「はい、マルメロンです!」

「何いー?」

「だから、まる・め・ろんですよ!」

「まる」=0、「め」=5、「ろん」=6、だから0枚と5枚と6枚ということである。

歴代の店長は面白い人ばかりで、いい職場だったのだが、今は閉店してしまった。
ここでの思い出はいっぱいある。またゆっくり書いていこうと思う。
posted by ぜごん at 17:53| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月14日

日本海に泳ぎに行く習慣

高速道路が島根県浜田市までついてから、山陰に行くのが格段と便利になった。
うちから車で2時間、広島市内からだと1時間半くらいで行ける。

以前はサーフィンをする友人と、江津あたりの海によく泳ぎに行ったものだ。
僕はサーフィンは出来ないので、友人からボディボードを借りて、きつめの足ひれをつけて、波打ち際で楽しんでいた。あれも波に乗れるようになると結構面白い。波の上をスーッとすべるように進んでいく感覚がたまらなかった。

高速のおかげか、停まっている自動車の7割程度は広島ナンバーだった。
3人ぐらいで行って、日が沈むまで泳いだ。日没後も海水はしばらくは暖かかった。
近くの食堂で夕食をとった後、その後海辺にテントを張って遅くまでいろいろ話した。
満天の星がこっちまで迫ってくるようだった。

近くで走り屋の兄ちゃんたちが宴会を始めた。
友人は気さくな性格で、そこに行って何やら話をしていた。
帰ってきて「こんなのもらったよ。」というので見せてもらうと一枚の名刺。
車の車種と名前、そして携帯番号が書いてあった。こんな名刺ははじめて見た。

翌朝は波のゴーッという音で目が覚める。朝日の中、海は少し霧で煙っていた。
午前中少し泳いで、帰りは山間のクアハウスで汚れをすっかり洗い流して帰る。
そんなことを何年か繰り返した。

(リフレパークきんたの里) http://www.web-sanin.co.jp/sight/spa/kinta/

今、テントを張っていたあたりには「しまね海洋館アクアス」(水族館)が出来ている。

http://www.aquas.or.jp/

ここには「ぜごんどう」によく似たシロイルカが何匹か飼育されている。

もうほとんどこの辺に泳ぎに行くこともなくなったが、今でも広島あたりから瀬戸内海にはない大波の刺激を求めて若者や家族連れが大挙して押し掛けているはずである。
posted by ぜごん at 07:55| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月05日

香川のタウン誌の爆笑コーナー

高校3年のとき、まだ開通したばかりの瀬戸大橋を渡って、高松まで行くことがあった。

そのとき、駅前の書店で「タウン情報かがわ」という雑誌を買った。
せっかく来たんだし、地元の情報でも手に入れば、という軽い気持ちだったが、ひとつ面白いコーナーがあって、帰りの車内で呼吸が出来ないほど笑い転げてしまった。

そのコーナーとは『笑いの文化人講座』である。

これは読者から笑わせるネタを募集して、編集長(のちの専務、社長)が「優」「良」などのポイントをつけ、その累積ポイント数に応じて月々ランキングをつけていく、というものであるが、そのネタのレベルがどれをとっても非常に高かった。また文章は基本的に讃岐弁(香川方言)で、よく分からないところも多かったがニュアンスは伝わってきた。

そのうち自分自身も投稿するようになり、ちょくちょく掲載されるようになった。
ある年には年間ランキングベスト10に入り、そのネタのひとつが年間の社長賞に選ばれて、万単位の賞金をもらったこともある。

今そのコーナーは終了しているが、これまでに単行本が25巻出版された。

今は(代引きのみですが)出版社がネット販売も行っている。http://www.hotcapsule.co.jp/cgi-bin/cargo5/sample2/index.html
posted by ぜごん at 07:01| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月26日

海猿の町

僕が物心ついたのは、広島県呉市のアパートだった。

「海猿」の舞台となった海上保安大学がすぐ隣にあり、父もそこに勤めていた。
波の音がすぐ近くまで聞こえてきていた。
あとは造船所の槌音も絶えず響いていた。工場には何本ものクレーンが稼働していた。

父親に連れられて、海上保安大学の構内をよく歩いたものだ。
「しんかい」という潜水艦が展示してあり、射撃場とかもあった。射撃場に行くと、父が何やら鉛の固まりのようなものを拾って来てくれた。これが銃弾だという。

5歳の時に金沢に引っ越したから、その頃の記憶はそれぐらいである。

先日DVDになった「海猿」を初めて見た。
見たことのあるような建物がいっぱいあった。
当時通っていた幼稚園はあの両城の200階段のすぐ近くだ。
あんな厳しい訓練が行われていたなんて知らなかった。

http://www.kurenavi.jp/html/movie_location_umi05.html

ついこの間も今年の潜水士の訓練が開始された、と新聞に出ていた。

みんなこの町でいろんな青春があって、各地へ赴任していったんだろう。
父も若い頃、あの潜水訓練の行われたプールでよく泳いだ、と後から聞いた。
今でも父宛てに釧路から石垣島まで、各地から年賀状が届く。

呉は当時の煤けたイメージが払拭されて、市街地もかなり整備されてきれいになったが、ちょっと離れると昔のたたずまいが今も残っている。

たまに呉出張の合間に寄ってみることがあるが、あまりに昔すぎて懐かしい、という感じはもはやない。でも何かホッとする風景である。
posted by ぜごん at 12:45| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月25日

芸予地震のこと。

土曜日、関東で震度5強の地震があったらしい。
僕は学生時代、4年間東京にいたんだけど、そのころはあまり地震がなかった。

関東は地震が多いとは聞いていたが、今までに最も強い地震を体験したのは皮肉にも今住んでいる広島で起こった芸予地震である。

平成13年3月24日。その日僕は昼までで仕事を切り上げて(土曜日だった)、家に帰ってゆっくりしていた。
父は長崎に出張、母は祖母の病院の付き添いでいなかった。
我が家の地区は震度5弱だったと思う。2階にいると突然強い揺れがあって、その場にへたり込んだ。
人形ケースのガラスが外れて床にぶつかるバシャーンという音がした。

30秒ほどで揺れはおさまった。1階に降りてみると、仏壇の花瓶が倒れて水浸しになっている。
春先だったので中の水はそれほど汚れていなくて助かった。

台所に行ってみると、カウンターに載っていた鉢植えがひっくり返って、洗った後重ねてあった食器の上にバサッと土がかぶっていた。仕方がないのですぐに洗っておいた。

問題は父の書斎だった。本棚が軒並み倒れて部屋は本の山になっていた。
大事な本ばかりなので、うかつに動かすといけない、と思い、そのままにしておくことにした。
案の定、出張から帰ってきた父親が「なんじゃこりゃー!(太陽にほえろ!の松田優作風)」状態になったのは言うまでもない。

我が家の被害はこのくらいですんだ。(被害とはいえないかも知れないけど。)

何ヶ月かして、うちを建てた住宅会社が無料点検に来てくれた。
瓦は何ともなかったが、家の外壁と、中の壁に一本ずつ、見えないくらいのヒビが入っていた。言われるまで全く気がつかなかった。特に問題はないという。

あれから四年経つが、今でも空き家とか、住んでいても使ってない納屋の瓦や壁が崩れた状態でそのままになっているところをたまに見る。あれってどうにかしたくても費用的な問題とかで直せないんだろうな、と思う。

とはいえ危険なことには変わりないんだから、行政とかで何とかできないものだろうか。
posted by ぜごん at 12:34| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月23日

邂逅〜ネットで生き続ける

父方の祖父は僕が生まれる10年前に亡くなったらしい。

父が言うには「埋もれた石碑などに刷毛をかけるような仕事」をしていた、らしいが詳しいことはよく分からない。

インターネットが家に来た頃、何気なくYahoo!で祖父の名前を入力してみたら、どっかの大学の先生が、貴重な本を探しているが見つからない。○○さん(祖父の名前)が所有していたようなのだが、と書いていた。

父にそのことを話すと、祖父が亡くなったときに、祖母が東京の古本屋を呼んで、祖父の本を二束三文で売ってしまったから、今はもう残っていない、ということだった。

早速その先生にそのことをメールで書いて送った。
すぐに返事が来た。出来ればその古本屋の名前が分からないか、とのこと。

父に聞くともうかなり前の話だから分からない、という返事。
先生にそれを伝えると、「残念です。」と言われてその話は終わった。

しかし、40年も前にこの世を去った人の持っていた物を探している人がいて、それをネットに書くことにより、僕のような祖父に会ったこともないような人間が(しかもその先生とは何百キロも離れているのに)思いがけなく見つける。そんなことが起こり得る時代になったんだよなぁ。

この件は不発に終わったけど、今後この手の話はいっぱい出てくるかもしれない。

あと、同じときの検索結果の中に、祖父の作ったあるもの(工芸品のようなもの)の写真も出てきた。祖父のことは父ともあまり話すことがなかったが、こんな形で祖父の遺した物、生きた証を見ることができたのは大きな驚きだった。

偶然というより、検索すりゃ出てくるんだから「必然」なのだろうけど、何かすごく不思議な気分である。
posted by ぜごん at 07:10| 広島 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月09日

「車内寄席」「交番寄席」・・・

落語研究会関係の話をもうひとつ。

大学では毎年春に都心部の校舎と郊外の校舎の間(45キロ位ある)を夜通し歩くという「ナイトハイク」なる行事があった。(これ書くと分かる人にはどこの大学か分かると思うが。)

落研も全員着物を着て、帯を締めて参加した。
夕方、東京ドーム近くにある校舎に集合するのだが、そこへ向かう京王線や総武線の中でも1年生や2年生が「車内寄席」をやらされる。
駅のホームや車両の真ん中に正座して、小噺を披露するのだ。
拍手してもらえるときもあったが、大半は迷惑だったろう。

午後7時くらいに出発して、しばらくは都心部を歩く。
ここでまた1、2年生は「交番寄席」をやらされた。交番の前に正座して小噺をやる。
まじめな警察官だと怒り出す人もいた。
そしてみんなのところに帰ってくると「おう、よくやった!」と先輩から日本酒を注がれる。

また、信号待ちのときに3年の先輩が「お、あんなところに電柱があるぞ!」という。
すかさず2年生が電柱に登り始め、「ミーンミーンミーン!」と蝉の鳴きまねを始めた。
先輩が「お前は誰だ!」というとその二年生が「○○大学○○学部○○学科 ○○です!」
と自分の名前を叫ぶ。
そして帰ってくるとまた先輩から「ご褒美」に酒を注がれるのだ。
何だかんだでその頃はもうみんなベロンベロンに酔っていて1、2年生が一通りその「蝉のまね」をやらされた。もちろん僕もやった。

笹塚あたりでOBの先輩(女性)と会って、そのままその先輩も5キロぐらい歩かされていた。何かそういうノリなのだ。

その後で夜通し30キロ以上の道のりを歩きとおすんだからやっぱり「若さ」だよなぁ。
八王子の校舎に着くとすでに太陽が高く上がって、日差しが痛いくらいだった。
足も豆だらけだった。二度と戻りたいとは思わないが、いい時代だったと思う。
posted by ぜごん at 08:56| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月08日

落語研究会の夏合宿

昨日書いた大学の落語研究会では、年一回夏に合宿があった。

その年(90年)の合宿は三島から私鉄に乗って15分ほど行った伊豆長岡の旅館であった。
何泊したかは忘れたが、朝は練習、昼は近くに遊びに行って、夜は宴会、という日程を何日か繰り返した。
周囲は自然がいっぱいで、何でもできそうな環境だった。
今から考えると、とにかく馬鹿なことを沢山やらかしたと思う。
色々あったけど、一年の僕たちは逆らえなかったが、楽しくもあった。

ある日、バスに乗って、沼津近くの海に泳ぎに行った。
太平洋沿岸ながら、波静かな浜辺で、ほぼプライベートビーチ状態。
みんなが海に浸かった後、先輩が「みんな海パン脱げー!」と言った。
その後、先輩はM君(前日の酒が残って一緒泳げず砂浜で一人残っていた同じ一年生)のところに海パンを持って行った。

何が始まるのかと思ったら、何故か「だるまさんがころんだ」なのである。
海に半分浸かったままでM君が「だるまさんがころんだ!!」というたびに海パンを取りに行く、という内容だった。
海から上がるとみんな恥ずかしい姿で砂浜を駆け抜けていく、その姿がとても滑稽だった。
最後に残った人には何か罰ゲームがあったが覚えていない。

また、近くに野球場があったんで、野球をやったこともある。
そこもあまり使われていないらしく静かで蝉の声しか聞こえないところだった。

先輩からルールの発表があった。何と「野球拳」をやるというのである。

2つのチームに別れるのだが、審判がアウト、エラーの判定を下すたびに一枚ずつ服を脱いでいく、というものだった。

ゲームが終盤になると、ピッチャーをやっていたU君(同じく一年生)などは下半身は何も身に付けてなくて、上はTシャツ一枚で、投げようと振りかぶるたびにナニが見え隠れする、という悲惨な状態になっていた。女性部員もいたのだが、そういう時にはうまい具合に同席していなかった。

もちろんちゃんとした練習もやっていた。
合宿中、顧問をしてもらっていた元笑点メンバーの師匠に指導を受ける機会もあった。
そのことはまた後日書きます。
posted by ぜごん at 12:40| 広島 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月07日

古典落語との出会い

大学の時、最初に入ったのが落語研究会だった。

演じる方はからっきしだったが、東京都内の至るところの寄席やホールによく連れて行ってもらった。

一番よく行ったのは新宿末廣亭。桟敷席とかあって、昔のままの雰囲気をそのまま残していた。あとは上野鈴本演芸場とか国立演芸場、郊外の町で行われる独演会などにもたびたび通った。

今は亡き古今亭志ん朝師匠や、柳家小さん師匠などもまだまだ現役で、そういう方の演技を生で観られたのは貴重な経験だった。
また、小三治師匠の演じる人情噺「芝浜」などは、これまで単に『落語=お笑い』ととらえていた自分にとって衝撃だった。


昭島市で行われた、立川談志師匠の公演も見に行ったことがある。
テレビで毒舌を垂れているイメージとは違い、まさに名演技で、表現に味があった。そこそこに盛り込んだくすぐりなども、師匠の豊富な経験と知識の中から生まれたものだろう、実に中身が濃くて面白い。その日の話は「権兵衛狸」。すぐにファンになってしまった。

昨年地元で東京の真打ちの落語家が色物の芸人さんを3組ほど連れてやってきたので見に行ったが、トリを取ったその落語家が演じたのは何と「牛ほめ」。

何か前座がやるようなネタだなぁと思ったけど、地方は東京と違って落語を接する機会とかが極端に少ないし、聴く姿勢とかも全然違うから、普段落語を聞き慣れない人に対しても分かりやすい話を選んだんだろうと勝手に理解した。

地方でもNHKとかで昔の名演とかを見ることができるけど、こういうのはその場その場の雰囲気とかに話を合わせるから、どうしても今聴くと違和感があったり、そうでなければ当たり障りのない話に終始してしまったりして、いまいち馴染めないんだよな。

機会があればまた本場で生きた落語に接してみたい。
posted by ぜごん at 12:48| 広島 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月05日

社会人一年目のこと。

僕が社会人一年目のスタートを切ったのは、山口の小郡町だった。
大学を出て、東証一部上場の(とは言ってもかなりマイナーな)メーカーに就職した。
1ヶ月合宿で研修があり、その終わりに配属が発表される。
その会社は全国に40近い営業所があり、フタを開けてみたら「山口」になっていた。

山口に行ったのは5月の連休中。
アパートを探すのに先輩が車で案内してくれた。山口線の周防下郷という無人駅の近くにいい物件があったのでそこに決めた。
営業所は8名しかいなくて、家族的な雰囲気。毎日山口県内をぐるぐる回っていた。宇部・下関コース、防府・山口コース、徳山・下松・光・柳井コースなどがあって、たまに萩や長門にも行った。

夏の盛りに萩のお客さんから袋いっぱいの夏みかんをもらったこともある。
下関市内も、今ほど再開発が進んでなくて、唐戸市場周辺は昔の港町の雰囲気を漂わせていた。
山口はすでにサビエル聖堂が既に火災で焼失した後で、まだ再建も始まっておらず、焼け跡がそのまま残された状態だった。

まだ入ったばかりで、ほとんどルートセールスに近い状態で、得意先を回るのは楽しかった。運転もだいぶここで上達した。何で辞めたのかここでは触れたくないが、これまで以上のやりがいを求めて、ということには違いはない。

あれから10年。
今のところで、やっと会社名、肩書きじゃなく、僕個人に対していろいろ頼られるようになったけど、まだまだだなぁ。まあ気ままにやってるけど。
posted by ぜごん at 12:44| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月02日

ラジオに夢中になっていた頃。

松山に南海放送という放送局がある。

日曜日の深夜、「POPSヒコヒコタイム」というラジオ番組があった。
局アナの田中和彦さんという方がパーソナリティで、最初の1時間はリスナーからのハガキを読みながら、洋楽のリクエスト(10曲ほど)に答え、後の30分は林浩彦さん(当時は英語塾の講師という肩書きだった)が登場、面白いハガキで大笑いし、最後の30分は洋楽ランキングを発表する、という内容だった。日ごろ聴く洋楽の数々はほとんどこの番組で教えてもらった。

高校1年の頃、ハマったのは後半の林さんのコーナーで、友人と競ってハガキを送って、読んでもらっていた。
林さんはいつも豪快に笑ってくれるんで、結構励み(?)にもなっていたと思う。

その友人と公開放送の収録を見に行ったこともある。
宇品まで自転車を走らせて、そこからフェリーに自転車を乗せ、松山に着いた後も何キロも走って、道後にある南海放送まで行った。(当時は疲れ知らずだった。)

僕の送っていたハガキもその公開録音で読まれて、大したハガキじゃないんだけど大勢の人が笑ってくれて、いい気分になった。(確かマイクで何かしゃべらせてもらったが覚えていない。放送はテープに録ったものの結局聴かなかった。)

その放送は昭和57年の放送開始以来、平成14年まで実に20年間続いた。

番組とのコミュニケーションはハガキが主流だった。一応アナウンサーが目を通してフィルターにかけるので、番組は一定のクリーンさが保たれていた。だからどうやったら採用されるのか、自分なりに不器用ながらも考えて書いてたと思う。(いや、書いていたことはホントくだらないことなのだけれど。)

今のネットの掲示板のような玉石混交、事実もウソも入り混じった世界ではないだけ、安心感もあった。反面、ネットのような即時性がないので、この番組だと水曜日までは間に合ったが、木曜日に出すともう読まれることはなかった。

今も仕事で車で走っているとき、時々1116KHzにダイヤルを合わせると、田中さんや林さんが番組をされていて、思わず聞き入ってしまうことがある。(林さんは現在も平日昼の番組を担当されています。)

時々リクエストなどしてみようかと思ってしまうときがあるが、出してみたところで多分僕のことはもう覚えていないだろうなー。
posted by ぜごん at 22:08| 広島 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月23日

ゼゴンドウの話

ハンドルネームになっている、「ぜごん」とは、スナメリ鯨のことである。

我が家の近くに瀬戸内海があるが、つい最近まで、本当に身近にスナメリ鯨を見ることが出来た。最近はほとんど見かけなくなり、地元の高校のホームページ等を見ると、「目撃情報をお寄せ下さい。」とか書いてある。

自分は子供の頃2回ほど見たことがある。
うち1回は親戚のおじさんに、漁船で釣りに連れて行ってもらったときだ。
何のおそれもなく船に近づいてくる白い固まりが、水面に上がるや潮を吹き始めた。

おじさんに聞くと、「あぁ、ゼゴンドウよ。」といった。うちの地方の呼び名らしい。
しかしイルカとか鯨の類が水族館以外でこんなに不意に自分の前に現れるとは驚きだった。

あれから大学に進学し、地元に帰ってきた頃はもう姿さえ見ることが出来なくなってしまった。原因は諸説あるみたいだが、この辺りが鯨にとって以前より住みやすい場所ではなくなってしまったことに違いはないだろう。何か悔しいような話ではあるが。
posted by ぜごん at 12:47| 広島 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 回顧録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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